2015年6月10日水曜日

東小金井の牡蠣と伊勢海老、白子と弁当

 これは海外の話ではないのだが、思い出したので一応書いておこうと思う。
 このお話には重大な教訓が含まれているからだ。
 その年、僕は三鷹の大学に入学した。三回目のチャレンジでようやく受かったので感慨はひとしおだった。
 僕たちの大学は三鷹の片隅に広大なキャンパスを構える、まるで外資系のような大学だ。構内の公用語は日本語と英語のみ、最初の一年は狂ったように英語を勉強する。実際、これが原因で狂う奴も年に数人出る。
 だが僕はようやく行きたかった大学に受かった開放感で一気にタガが外れ、毎日遊び惚けていた。無論そんなアホな学生は僕一人ではなく、すぐに僕は悪友数人と連んで夜な夜な遊び歩くようになった。
 もっとも、遊び歩いていたとは言っても所詮は武蔵野の片隅だ。大学一年生にはお金がない。行くのは定食屋かチンケな居酒屋、あるいは友達の下宿と決まっていた。九月に入学してくる帰国子女や留学生たちは六本木に遊びに行ったりもしていたようだが、僕たちにとって吉祥寺から向こうは世界の果てだ。大学のある武蔵野台地は巨大な亀の上に乗った大きな四頭の象に支えられ、吉祥寺から先には大きな滝があると僕たちは固く信じていた。
 そんなこんなですっかり馬鹿になってしまった翌年の一月の事、僕たちはアメリカンフットボール同好会のJに飲みに行かないかと誘われた。
「田舎から友達が遊びに来てるんだ。一緒に飲まない?」
 嫌な訳がない。Jはとてもナイスな奴だったし、彼の友達だったら歓待しないわけにはいかない。まだ携帯電話がない時代だったから、僕たちは自転車であっちこっち飛び回って参加者をかき集めた。
「でもさ、あんまり金ないんだよね」
 Jは心配そうに僕たちに言った。
「大丈夫、そういう時は東小金井のS(いろいろ危ないので名前は伏せる。理由はすぐに判る)って店がいい。あそこは安いよ」
 福島出身のOが言った。
「あそこ、危ないって話じゃん」
「十回中九回は大丈夫だって聞いたよ」
「ま、火が通ったものだけ食べよう」
 その店は、ほとんどバラックのような外観の店だった。一階はテーブル席、二階が座敷。売りは魚料理だが、焼き鳥もある。
 自転車で集合した僕たち五人は二階の座敷に通されると、安物のちゃぶ台を二つ繋げてつくった席を囲んで座った。
 Jの友達だというKは、真面目そうな青年だった。モヒカン刈りの側面に頭文字のJと残し、髪をピンク色に染めている北斗の拳の悪役のようなJと接点があるとはとても思えない。
「K君はなんでこんな時期に東京に来たの?」
「受験なんです」
 K君が言うには、ホテルに泊まると言って親から余計にお金を貰い、Jの家に泊めてもらうことで小銭を浮かせたのだという。
「へえ、次はいつ?」
「明後日が上智、そのまた翌日が慶応」
「僕たちの大学は受けないの?」
「俺、知能テストは苦手だから。あんな特殊な入試は無理ですよ」
 彼は謙遜して言った。
「じゃあ、今日は栄養つけないとね」
 人のいいOがニコニコと笑う。
 誰も受験生が試験直前に酒を食らっていいのかという事については突っ込まなかった。
 そんな野暮をしたらこの会がお開きになってしまう。
 正直、Kはあまり気乗りしないようだったが、臨時家主のJの手前、あまり我が儘を言えないのだろう。最初のビールを飲み干した頃にはKも諦めてこの飲み会を楽しむことにしたようだった。
「生モノは怖いから、鍋と焼き物にしよう」
 慎重派のSが手書きのメニューを繰りながら僕たちに言った。
「よし、さつま揚げ、ホッケ、シシャモは頼もう。あとはなんにしようか」
「焼き鳥の盛り合わせがあるよ」
 とJ。
「採用」
「鍋があるじゃん」
 Oが次のページを指差して言った。
「鍋ならコスパ高いよ」
「うむ。採用しよう」
 Sが頷く。彼の衛生観念は高い。彼が大丈夫というのなら大丈夫なはずだ。
「そうだな。じゃあ、寄せ鍋でももらおうか、人数分……しかしやっすいなー、鍋二人前五八〇円ってこれマジか?」
「日本酒ももらおうよ。安いよ、一合百八十円だって」
「じゃあ、とりあえず二合?」
「いやあ、ひとり一合でよくね? どうせ飲むでしょ」
 とJ。
「じゃあ五合ね。一升瓶もあるよ」
 つまらなそうに伝票に注文を書きつけるオバさんが僕たちに呟く。
「いやあ、それはいいや」
 注文を取りに来ていたオバさんが帰ったところで僕は周囲を見回した。
 煤けたお店に集うお客の平均年齢は高い。明らかに僕たちが一番の若手だ。隣は顔を赤くしたサラリーマン風のおじさんたち、向こうにはもっと歳の行った老人のテーブルもある。
「君たち、学生さん?」
 早速、隣のサラリーマン風のおじさんたちが話しかけてきた。この手の店にありがちな光景だ。
「はあ」
「どこの大学? 僕たちはね、A大学の職員なんだよ」
「僕たちは三鷹の方の大学です」
「ああ、K大かあ。あそこからここに来る子は珍しいねえ。ここはいいお店だよ」
「はあ」
 気のない返事を返す。
「まあ、徐々に身体を慣らすんだね。すぐに慣れるよ」
 慣れる? どういう意味なんだろう。
 ホッケは良く火が通っていて美味しかった。さつま揚げはスーパーで売っている物の方が美味しいかも知れない。味の素が多すぎて少し舌が痺れる。シシャモは身が痩せていてまるでメザシのようだった。
 だが、アルコールさえあれば問題なし。僕たちのテンションは徐々に上がり、気づいたときには隣のおじさんたちと一緒に飲んでいた。
「やあ、君たち通だなあ。鍋か」
 店のおばさんが持ってきたカセットコンロとペコペコに薄い鍋を見ながら、A大学のおじさんたちは僕たちの背中を叩いた。
「寄せ鍋だったらおじさんたちがいいものをあげるよ。これ入れると良い出汁が出るよ」
 丸顔のおじさんはニコニコと笑いながら刺身の皿を僕たちに差し出した。
 皿の上には伊勢海老の頭が一つ。身は食べてしまったようで頭と尻尾の一部しか残っていない。
「もったいないからねえ。鍋に入れて煮るといいよ。汚れてないから大丈夫」
「ありがとうございまーす」
 すでに相当飲んで判断力が怪しくなっていた僕たちは、迷わず海老の頭を鍋に入れた。
「あ、そうだ」
 隣の細いおじさんはカバンをゴソゴソ探ると四角い箱を取り出した。
「これ、今日の作業で出た弁当なんだけどね、今日は寒かったしまだ大丈夫だと思うんだ。後で雑炊にするといいよ」
「ありがとーござまーす」
 僕たちは白米の詰まった折も受け取った。
「うーん、なんか物足りないんだよなあ」
 鶏肉と野菜、それに真っ赤な海老の頭が揺れる鍋を味見してOが首をかしげた。
「なんだろうなあ」
「あー」
 その時、メニューを眺めていたKが大声を上げた。
「Oさん、牡蠣あるじゃないですか。鍋に入れましょう」
「だって、これ酢牡蠣だよ」
 と慎重派のS。
「お酢は捨てちゃえばいいんですよ。俺、牡蠣好きなんですよ」
「じゃあ、頼もうか」
「それじゃあさあ」
 Oはメニューを指さした。
「白子も入れよう。白子最高だよ」
 何がなんだかわからなくなってきた。
 さっきまで寄せ鍋だったものには海老の頭が生え、元酢牡蠣と白子も入っている。元々の主役だった豚コマと鶏肉は片隅に押しやられている。これじゃあ闇鍋だ。
「面倒だからご飯も入れちゃえ」
「あ、馬鹿ッ」
 止めるまもなく、Jは梅干ごとおじさんにもらったご飯を鍋の上にぶちまけた。
「あーあ、鍋が雑炊になっちゃったよ」
「あはは、学生さんは豪快でいいね。じゃあお先に」
 A大のおじさん達はそんな僕たちの様子を目を細めて眺めながら席を立った。
「ありがとうございました」
 礼儀は大切だ。僕たちはわざわざ立ち上がるとおじさんたちに最敬礼した。
「気をつけて食べるんだよ」
 少し心もとない足取りでおじさんたちは階段を降りていった。

 ここから先はカオスだった。
 卵はなかったものの、雑炊は美味しかった。さすが海老の王。伊勢海老の出汁は伊達じゃない。ほどよく火の通った牡蠣や白子もいい仕事をしていたと思う。
 気が付けばひと皿六八〇円の河豚刺しをJが食べていたし、記憶は曖昧だったが〆鯖も食べた気がする。
 閉店になって店を追い出されたときは夜二時を回っていた。
「全部で八千九百円ね」
 出口でオバさんが俺たちに言う。
 手元がおぼつかないためとりあえずOに会計を任せると、僕たちはふらふらと自転車を漕いでJの下宿に雪崩込んだ。
 翌日、僕の部の部室で会計をした。今日会計をしないと家賃を払えないとOに泣きつかれたのだ。
「ひとり千五百円ちょいか、あれだけ食べてこれは安いなあ」
「また行こう」
 まだアルコールの残っている脳みそで昨日の楽しかった思い出を反芻する。
「K君はどうしてる?」
 僕はJに尋ねた。
「楽しかったみたいだよ。リフレッシュできたから、上智は行ける気がするって言ってた。今はなんか単語とか見直してるみたい」
「そうか、それは良かったね」
 そしてそのまた翌日、僕たちは全員発症した。

+ + +

 牡蠣の食中毒は激甚だ。アナフィラキシーショックを起こして亡くなる人もいると聞く。
 翌日目覚めた時、明らかに僕は死にかけていた。
 胃がまるで、ダリの描いた時計のように背骨にまとわりついている。
 当時ドラクエをクリアするために僕の実家に泊まり込んでいた友人のMに頼んで、僕は体温計を居間から持ってきてもらった。
 おぼつかない手つきで水銀体温計のケースを開き、脇の下に挟む。
 四十.八度。
 水銀柱があっというまに駆け上がる。信じられなかったので二度測ってみたが、体温は一緒だった。
「おまえさあ、変なもの食っただろ。食中毒って一日置いて来るんだよ。翌日は大丈夫なんだけど、翌々日には菌が大繁殖してえらいことになるんだ。病院、行くか?」
「いや、大丈夫。ポカリで凌ぐ」
 友人が死にかけているのにも関わらず、相変わらず復活の呪文をメモしたり地図を書いたり忙しくしているMの背中に声を掛ける。
「まあ、気が変わったら言ってくれや。背負ってやる」
 僕は廊下に置かれた電話まで這っていくと、三回失敗してからSに電話した。
 十回以上待ってからSが電話口に出る。声に生気がない。
『…………やあ』
「……生きてる?」
『死んでる。なにを食べても吐くな、これ』
「下は?」
『爆発』
「水、摂ったほうがいいぞ」
『……コーラ、飲んでる。振ってから。コーラ、さすがだ』
「そうか、健闘を祈る」
『お前も』
 僕は電話を切った。
 何が当たったのだろう。酢牡蠣か? 白子? 思えばおじさんがくれた白米も怪しい。それを言ったら海老の頭も相当だ。海老の食中毒も激甚だと聞いたことがある。
 考えれば考えるほど、何もかもが怪しい。
 しばらく涼しい廊下で原因を考えていたが、結局考えてもしょうがないという結論に達し、僕は再び寝室に這い戻った。
「病院、行くか?」
 Mが相変わらず画面を見ながら僕に言う。
「いや、たぶん、大丈夫。寝る」
「そうか。洗面器、いるか?」
「いる。お袋に頼んでおいてくれ」
「わかった」
 僕はようやくの思いでベッドに這い上がると、目を閉じた。
 そのまま、僕は一週間完全に死亡した。

 当然のことながら、K君は上智大学に落ちた。

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